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東日本大震災の特性
今回の東日本大震災の特性ですが、被害は、津波によるものが地震によるものに比べて大きく、甚大なものでした。地震のエネルギーとして、M9は大地震ですが、3月11日の地震で壊れた建物はあまりなく、仙台市内でも、停電や断水、ガスの供給停止にはなりましたが、建物は殆ど破壊されませんでした。
地震による被害は、3月11日の地震よりも、4月7日の余震の被害の方が大きいものでした。1ヶ月間、1日何回もの余震が続いた結果の繰り返し荷重と、この余震自体もM8に近く、震度も6と大きかったためです。しかし、それでも津波の被害に比べれば小さなものでした。生命・財産を失い、街が破壊されたのは津波による被害が大きかったためです。
また、北海道から神奈川県に至る広範な地域が被害を被りました。これは、今回の地震が三陸沖、仙台沖及び福島原発の沖を震源とする連動性のある地震だったためです。加えて、原発事故も重なり、複合した災害になりました。
更に、自治体によっては、その機能が喪失してしまいましたが、これは東日本大震災の非常に大きな特性でした。自衛隊も自治体も、自治体の機能が生き残っているという前提で防災計画を策定し、訓練を実施していました。ところが自治体によっては庁舎が無くなり、防災拠点も失ったり、或いは、町長や防災責任者が行方不明になり、職員の方も三分の二がいなくなる等、キーパーソンが、その時その場にいない状況が生起したのです。
自衛隊の対処
災害では初の陸海空統合で最大10万人を越える大規模な部隊を編成しました。当時東北方面総監の私が、防衛大臣の下で一時的に統合任務部隊指揮官として指揮を執りました。
陸災部隊としては、人員約7万人、5個師団・4個旅団・3個施設団等の部隊が指揮下にありました。海災部隊としては、人員約1.4万人、航空機約200機・艦艇約50隻、それに空災部隊として、人員約2.2万人、航空機約240機が指揮下にありました。司令部は約700人で、平常の約3倍に増強され、この10万人の作戦を指揮統制しました。その中に日米の調整所を作り、中央の横田と市ヶ谷、現地の仙台で日米調整をしました。米側は当初は在日米軍司令官が、その後増強されて太平洋艦隊司令官が指揮を執って約1.6万人、空母や揚陸艦を含む態勢でした。
戦力は最初の一週間で10万人態勢を確立し、5月以降、態勢移行を開始し、任務を終えたところから撤収し始めました。
総括しますと、部隊は全国から駆けつけており、また、訓練ではなく実際の日米共同のオペレーションを行いました。そして原発と地震の二正面を、自衛隊が最後の砦として対応しました。
活動の経緯
最初の一週間は人命救助が主体でしたが、徐々に生活支援が始まり、それらが同時並行的に進行しました。一週間を過ぎたら、人命救助が行方不明者の捜索に変わっていきました。生存を前提として、行方不明者を、数ヶ月に渡り、最後まで捜索しました。
生活支援の要望もある中、実態として多くの自衛官は行方不明者の捜索にあたりました。知事も「生活支援」と言いつつ「行方不明者の捜索を宜しく」が本音であったと思います。
生活支援は、最初は水が欲しい、次に食事が欲しい、最後に風呂が欲しいと言う様に生活のニーズが変化していきます。それに一つずつ応えていき、ニーズが無くなれば撤収します。
例えば、風呂屋が開設されて無料の巡回バスが動き出したら、入浴支援は撤収します。
医療支援も最初は自衛隊が担当し、全国から医師が集まり医療活動が始まると、その医療機関までの送迎を担当し、それも不要となったら撤収していきます。その様にニーズがなくなったら一つずつ撤収していきました。
輸送も、最初は支援物資を提供される方々ご自身で、支援物資を送って頂こうとしましたが、送る手段がありませんでした。そこで支援物資を提供される方々に、陸海空自衛隊の最寄りの駐屯地や基地まで支援物資を持ってきて頂き、駐屯地や基地からは、陸海空自衛隊で被災地の近傍まで運ぶとともに、被災された方々が居られる地域に届けるといった流通も担当しました。
ところが、その様な中、欲しい人に欲しい物が届かない状況が生起しました。全国から色々な善意の支援物資が届いても、その荷物に何が入っているか分かりづらいためです。例えば箱に食料と書いてあれば、食料の倉庫に集積するのですが、配分のため箱を開けたら、ビスケットが一個入っていて、後は薬とか防寒用のコート等の食料以外の色々な物が入っていたりします。
このような状態のため、全部荷分けしないと配分できません。そこで、500人位で荷物を全部開いて荷分けをした後、配分と輸送を行いました。そして、その手順を発展させて、最後には「写真入りのカタログをコンピュータに入力し、避難所で何番の何々が欲しいとクリックしたら2日前後で手元に届く。」といったシステムを自衛隊で開発・構築しました。
様々な仕事や必要なシステムを、自衛隊で作り上げて提供し、最後はシステムごと民間に申し送り、自衛隊は撤収しました。
原発では最初は避難誘導を担当し、次いで20〜30q圏内で白いタイベックスーツを着て行方不明者の捜索を行いました。この行方不明者の捜索を早くから行いたかったのですが、約10万人でも人員的に不足していました。
まず、当初の段階において、第13旅団、第12旅団及び第1空挺団は、いざというときに当該地域の方々を避難誘導する任務を有していたため、行方不明者の捜索を行うことができませんでした。
この状況は、4月中旬を経て、やっと打開され、行方不明者の捜索に3個旅団+2個連隊を投入することができました。
その後一時立入りの支援も行い、除染支援は12月の終わりまで続きました。

教訓
まず、教訓の一つ目は、「想定外、想定したくないは許されない。」ということです。
我々も災害派遣計画を作っており、この3月の末に政府の計画にする段取りでした。その前に災害が発生した訳で、その計画はM8ぐらいで、陸自としては地元の2個師団、それに北海道か関東の1個旅団、その3個単位ぐらいで対処する計画でした。
どうしてその様な計画になったのかと申しますと、それは想定していた地震の規模やその被害見積が小さかったからです。ところが実際に起きた地震はM9で、しかも複数の震源が連動して広範な地域に被害を及ぼし、津波も海岸付近で10メートル、リアス式の海岸で実際に上がったところは30メートルを越えてしまいました。
地震学会で99%の確率で30年以内に地震が起こると計算されており、我々も何時地震が起きてもおかしくないと準備し、自治体と訓練を行っていました。ただし、今回の大震災の様に大きな被害を想定して計画をしてなかったのは事実でした。
しかしながら、計画外の行動であっても、全自衛隊の半分以上が全国から駆けつけ、初対面の自治体と齟齬なく調整し、作戦出来たのは普段からの訓練或いは準備の賜かと思います。
ところで、原子力災害において、東北電力の女川原発は全く被害がないどころか、そこが一番安全だと地域の住民の方々800人が逃げてきて、一ヶ月近く避難されました。
なぜそういう違いがでたかと申しますと、女川の場合は、1200年前の貞観の地震の教訓を経て、嵩上げを行っており、発電施設も水を被らない様な設計をしておりました。この嵩上げや水を被らない設計に携わられていた役員の方は、地震の前まで役員会や株主総会で厳しい追及を受けていたそうですが、今は神様だそうです。
次に「自衛隊員は戦力であって、コストではない。」ということです。
具体的な話をしますと、災害時の人命救助では発災後72時間という時間が大変重要です。発災後72時間を越えたら一般的に命が助からないと言われています。
このことは、実際に救助した人数にも如実に表れており、1日目及び2日目で救助した方は7800人、次の3日目が4500人、4日目で2300人とぐっと落ちています。
その後は、実態として、ご遺体の収容になっていきます。だから発災後72時間以内に現地に駆けつけられる部隊、しかも機械力の使用が制限されることからマンパワーが必要となります。
自衛隊員一人一人が、瓦礫を乗り越えてゆく、小さな手こぎボートで行く、或いはヘリコプターで一人ずつ吊り上げる等々、まさにマンパワーの勝負になるのです。
今回の発災後、この72時間で現地に駆け付けられたのは、東北の部隊、これが約2万人、それからすぐに駆け付けた第12旅団の一部です。
その他の部隊では、名古屋の第10師団は早かったですが、主力の到着は、やはり3日目、4日目になりました。つまり、全国津々浦々に陸上自衛隊の駐屯地があり、発災後72時間で駐屯する近傍地域に迅速に駆け付けられること、それがいざと言うときに活きるのです。
その時そこに発災後72時間で現地に駆け付けられるマンパワーがあることにより、より多くの被災された方々を救助できる可能性が高まります。
また、「人の心は弱いもの」ということも教訓です。
行方不明者の捜索において、捜索を行う隊員は、自身の家族と捜索で発見された行方不明者の姿を重ね合わせ、自身の妻と同年代の奥さん、自身の子供と同年代の子供を見る度にショックを受け、手で拝みながら行方不明者を捜していきました。加えて、ご遺体収容の後、最終的には仮埋葬もせざるを得ませんでした。
この状況に対して、自衛隊は、心理幹部等の専門家によるカウンセリングの実施等を行いました。幸いなことに、本災害のストレスで、普段以上に心的外傷の数が増えたという事はありませんでしたが、これは、この分野に普段の十倍程の勢力を使ったためだと思います。
次に、「日米共同訓練等による平素からの協力強化」も教訓です。
今回、米国がトモダチ作戦と命名したのは救援・救出というイメージよりも同盟国としての「フレンドリーな気持ち」や「我々はトモダチなんだという事実」を明確にするためだと聞きました。
今回のトモダチ作戦では、仙台空港や学校の復旧をお願いしました。副大統領はじめ高官の慰問・激励等も多く、これはアメリカも関心持っていた証拠です。これらの事は、全て日米同盟の大きな成果だと思います。
また「海上輸送力及び情報通信基盤等が問題になりましたが、これらの整備の必要性」も教訓です。
今回は、海上自衛隊の輸送艦が不足したため、民間輸送力であるフェリーを活用しましたが、平時からの協定もなく、規制も現実的ではありませんでした。
調達は随意契約は出来ず、入札には公示が二週間必要だとか、燃料は積載してはいけないといった制約のため、北海道からきた第5旅団は自分たちが活動するために必要な燃料を積載してくることが出来ず、更に、東北にも燃料がなかったため、結局数日間、行動が制限されました。
以上のことから、平時から法律や協定を見直すことが必要だと思います。
また、陸海空自衛隊の通信手段が繋がりにくく、陸上自衛隊内においても、隣の部隊と無線が通じない状況が生起しました。これは、周波数だけでなく、お互いの部隊等が使用している通信機材の規格自体が異なっているためであり、この分野は早急に改善を図っていこうと思っています。
最後に「家族支援」に関する課題について触れておきたいと思います。
絆は、今年の字になったように、色々な意味で重視され、認識されました。自衛隊にとっても隊員と隊員家族の絆は、任務を完遂する上で大変重要であり、そのため、家族支援は重視すべき事項です。
今回の東日本大震災における東北の隊員家族は、その家族や家を失い、或いは官舎は停電で食べ物がなく、余震で家に入れずテント暮らしを余儀なくされる等、様々な困難な状態に直面しました。それにも関わらず不公平になるからと駐屯地から支援が出来ませんでした。そういった「被災した派遣隊員の家族支援をどの様に行っていくのか」ということも、今後の大きな課題です。

72時間を経過すると急激に救出者が減少する。命を救うには、直ちに駆けつけられるマンパワーが必要。
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